宵宮祭ですよ。ついに。
でもね、最近の七福さん、考えてたんですよ。
そもそもさ、観亀神社って宵宮祭だけがクローズアップされがちだけど、どういった歴史があって、あそこにあるんだろうか、と。
でね、なんかさ、祇園東を応援したい気持ちが変な方向に煮詰まって、こんな文献を探し出しました。以下、引用。
~写真で解説! 観亀神社 序章~
著 七福
今や世界的な観光地となった京都。
京都と聞いて何を思い浮かべるかは人それぞれであろうが、もしも私が聞かれたら花街文化、中でも個人的にチョー推しである「祇園東!」と即答するだろう。
京都市東山区祇園町北側。ここに京都五花街の一つ、祇園東がある。
この地には元々、京都御所の警衛を務める近江の国は膳所藩の藩主、本多俊次が賜った広大な屋敷があった。
広さというと東西は花見小路から東大路、南北は新橋通りから富永町通りまでの約4350坪の土地である。
4350坪。ピンと来ない。東京ドーム何個分かっていうと、だいたい1/3弱である。
チョー広れぇじゃん東京ドーム。
(↓ 正面のご神体は神鏡)
(↓ 表面には「三吉大明神」とあるが詳しくは不明)
(↓ 入ってすぐ左側にある小さなお社。普段はシャッターが閉まっている為、お参りできない)
1659年 徳川家綱の時代に膳所藩の藩主、本多俊次が京屋敷をこの地に賜る。
1710年 御所の火の番を、丹波亀山藩、淀藩、郡山藩と交代で仰せつかる事となる。
京屋敷を賜った本多俊次の孫にあたる、近江膳所藩の第4代藩主、本多康慶は(1718年没)このような遺言を、息子の康命に残す。
「膳所藩は御所の火の番を任されたのであるから、火伏せの神である遠州秋葉山の秋葉権現を膳所茶臼山に勧請せよ」と。
康命は父が没した翌年、秋葉権現を早速茶臼山に勧請。
さらにその御分霊を膳所藩京屋敷の中庭にあたる当地に移祀した。
(↓ 右奥にあるお社)
移祀の際、神社を造営する為にこの付近の竹藪を切り開いていた所、その竹藪から亀が出てきた。
亀は萬年というように縁起の良い生き物。しかも神社造営のタイミングである。皆はこれを吉事として歓喜した。
これにより「歓喜神社」「観亀神社」と称し、のちに正式名称を「観亀稲荷神社」とする。
(↓ 壁に飾られている巨大な羽子板。細工も細かく価値のある物であろうが、どのような謂れがあるのか今では誰も知らない)
今でも火伏せの神様として、また年中行事には2月に二の午参り、5月には例祭があり参拝者が後を経たない。
中でもその例祭の前日に執り行われる宵宮祭では、観亀神社の氏子でもある祇園東の芸舞妓が総出で奉仕する賑やかな祭事がある。
一章からは祇園東の芸舞妓の写真を多めにイジっていく紹介する。
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